写真をもっと、好きになる。

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現実の世界を切り取って、自分の好きな世界を新しく作り上げていく。

そんな魔法が写真の中では可能になる。

 

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写真を撮るのが好きだ。

わたしは自分の記憶力に自信がないから、写真という記憶装置がわりと不可欠だったりする。

 

人も景色も全部全部残しておきたい。

 

 

加工カメラといわれるものが流行っているが、

個人的には写真の加工はアリだと思う。

顔の周りに耳とかリボンとかが出てくるものはあんまり使わないけれど。

 

加工カメラのフィルターに頼ってもいいし(好きだし)、

でもできたら自分の手で色味や明るさや濃淡を調節したい。

 

 

実際に見ている景色に感動してシャッターを切って、

わくわくしながら写真を見てみると

「うーん実物の方がきれいだなあ」

なんてがっかりした経験は、きっと誰にだってある。

 

写真の加工って、

写真の中の景色を自分が見て、感じた景色に寄せていく作業だと思うのだ。

同じものを見ていても、わたしとあなたの目にはたぶん違うように映っているから。

わたしにはこんな風に見えているんだよ、こんなふうに感じたよ

ということを一枚の写真を通して伝えられるのは、すごいことかなと思う。

 

そんな風に手を施した写真は、その人がつくる芸術に近いんだろうし、

写実的というよりも物語的で、それはそれで好き。

だから色んな意見があると思うけれど、わたしは加工肯定派。

加工してないそのままの写真も勿論好きだけど。

 

 

そう、同じものを撮っていても、

撮る人によって全く違う表情をみせるのが写真なのだ。

それは、加工をしてもしなくても。

「その人」が出てくると思う。

 

だからわたしは

「わたしは世界をこういう風に見ているよ」

っていうことを伝えるために写真を撮りたいし、他の人に見てもらえたら嬉しいなあと思う。

そして、人が撮った写真も見てみたい。

そうやって世界の交換をしてみたい。

 

 

つらつら書いていたら写真を撮りに行きたくなった。

そんなに撮るのが上手いわけではないけど、

写真って個人的にとても面白いものだと思うので

また別の記事でも書いてみたいな。

 

物語は人生を豊かにするというはなし

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わたしは本を読むのがすきだ。主に小説。

 

 けれどなかには、

「小説を読む時間があるのなら、ビジネス書を読んだほうが余程生産的だ」

という考え方の人もいる。

 

考え方は人それぞれだなあと興味深さを覚えつつ、

この意見に対してわたしなりの考えを述べさせてもらいたいなと思う。

 

 

まあぶっちゃけ小説を読むことが

ビジネスと直接的に結びつくかというと、そうでもない。

 

それならビジネスに役立つエッセンスが詰まっていて、

インプットしたものをすぐにアウトプットできるビジネス書を読んだほうが

有意義だ!という考え方は非常に筋が通っている。確かに。

 

しかし、小説を通して

何ものにも代えがたいとっておきの経験ができることをご存知だろうか。

 

それは

他者の経験を追体験できる点である。

 

え?なにそれ?

と思うかもしれないが、考えてみてほしい。

 

普通に生きていれば、自分の人生しか生きることができないし、

自分が経験したことしか経験できない。

 

しかし本を開き物語の世界に没入することで

会ったこともない人の人生を追体験できる。

 

年齢、性別、国籍、そして時代を問わず

誰の人生でも、である。

 

しかも小説ならば、日常生活では決して知ることのできない他人の考えが

文字として可視化されている。

これってよくよく考えてみると物凄いことだ。

 

ビジネスには必ず他者との関係が発生する。

 

その中で、自分の中の考え方のストックがあれば

どんな人と出会っても対応できるであろうし、

 

ついでに言うと

「この人って今こう考えているのかな」

という勘が確実に鋭くなる。

 

また、何十人 何百人もの人生を経験し、

その何十倍もの人に物語の中で出会っているので、

自分ひとりの考え方に固執せず物事を柔軟に考え、受け入れられるようになる

とわたしは思う。

 

 

上記は映画においてもいえるだろう。

 

小説然り、映画然り、

物語のような一見遠回りにも見えるものが

案外本質的だったりする。

 

ビジネス書にも面白いものはたくさんあるし、

知識としてのインプットも勿論大切だ。

 

 

だが、目先の単純さだけに飛びついて、

無駄だ無駄だと切り捨てていくのではなく

周りくどさを愛していけば、人生はどんどん豊かになる

とわたしは考えているし、そういう人生にしていきたい。

 

 

 

ほうれん草はなぜ 298円なのかというはなし

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東京の野菜は高い

これはただの愚痴である。

都会は野菜が高い。

あるときスーパーに入るとほうれん草が298円で売られていた。

いくらかだったは覚えていないけれど、地元のほうれん草はもう少し安かったように思う。

そんなことを考えつつ、ほうれん草を買って帰る。

キッチンに立ち、無心でほうれん草を切りながらふと思った、

 

「切ってしまえば大して見た目は変わらないのに、

   道ばたに生えている普通の草とほうれん草はなにが違うのだろう?」

 

ほうれん草は偉いのか

「ほうれん草 栄養」で検索するとこんな記事がヒットした。

 

rassic.jp

 

ほうれん草の栄養はやっぱりすごい!らしい。

鉄分やビタミンCを始め、たくさんの嬉しい栄養素が満点だそうだ。

すごい。むしろ298円では安いのかもしれない。恐るべしほうれん草。

 

ただ、考えてみると

ほうれん草だって昔はそこら辺に普通に生えていた、名無しの草だったのである。(たぶん)

それを誰かが見つけ、恐る恐る食べてみて、

なにかしらの研究をごちゃごちゃとしていき、

これは体に良いぞ!!と証明されたはず。(たぶん)

 

 

そこの違いってなんだろうなと思うのだ。

 

価値はどこで決まるのか

物の価値というものはたいてい金銭で決められる。

ほうれん草は298円を払う価値であるものだ、という認識があるから

298円で売られていても購入する人がいるのだろう。

 

だが、道ばたに生えている草を298円で買う人はいない。

それどころか踏みつけられたりもする。

 

ももしかしたら、今踏みつけられている草の中にも

もしかしたらほうれん草を凌ぐようなとんでもない力を秘めたスーパーマンが存在しているかもしれない。

 

そう考えると、物の価値って今現在の常識に依って決められるものではないし、

それは物でなくても人においても環境においても、

すべてにおいて言えることであると思う。

 

298円の価値が付いているから偉い、無名でなんの価値もないから劣等である

ではなく、

「もしかしたらとんでもないパワーを秘めているのかも」

という尊敬の念を持っていたいし、

できれば、ほうれん草をしがない一介の草から

「すごい!」と言わしめる存在にまで押し上げたほうれん草発掘者さんのように、

その価値を自ら発掘できる存在でいたいものである。

 

「わからなさ」をときめきを持って甘受するというはなし

      

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わからない は 悪?

とても清々しい気持ち悪さでした 

2016年2月1日の朝日新聞のコラムに寄せられていた最初の一文。

ある展覧会を訪れた方の感想の引用です。

 

わたしは心に残った言葉やらなんやかんやをノートに残しているのですが、

そのノートを読み返しているとこの言葉に出会ったので、

この記事はこれをテーマに書いてみようと思います。どきどき

 

 

 

どうしてこの言葉が印象的だったかというと、

清々しさ と 気持ち悪さ は普通はイコールで結ばれるものではないから。

 

ここでいう気持ち悪さとは

「なにかよく分からない得体の知れないもの」を指しているのだけれど、

普通はそういうものってあんまり見たくないし、清々しいなんて言えない。

 

 

じゃあなぜ、よくわからないものに対して

わたしたちは不快感を抱いてしまいがちなのか?

 

  

わたしなりの答えは、

世の中がわかりやすいもので溢れていて、

  かつ無駄なものを排除した完成形が求められているから」。

 

  

だって今の社会はスマホひとつあればなんでもできる。

テクノロジーは日々発展し続けていて、様々なものが最適化され、

自分の思い通りにできる幅は圧倒的に広がっている。

 

「より簡単に」「よりわかりやすく」と簡略化が進むなかで、

「できないこと」「わからないもの」に対しての抵抗感が増しているのではないか、

というのがわたしの仮説です。

 

じゃあそういうわからないもの、面倒くさいものって切り捨てられるべきものなの?

というと、そうではないと個人的には思っています。

 

 

未完の美 という感性

「未完の美」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

 

本当の美は、心の中で未完成なものを完成させようとする者にのみ、発見されるべきものです ー 岡倉天心THE BOOK OF TEA」より

 

完全ではないものに対して趣を感じる、

わびさびを見出す精神性は古くから日本にあったもの。

 

わたしはこの考え方が結構好きです。

 

最初から完成されたもの(=わかりやすいもの)は

ともすれば人を決まった思考に追いやってしまいます。

 

不完全さ、わからなさを受け止め、自分なりの解釈を加えていくことは、

確かに最短距離ではないけれど、大事なことなのではないかなと思います。

 

 

 

冒頭に引用したコラムはこう続きます。 

何かよくわからないものは人を不安にするが、妙にわかりやすいもののほうが本当は怪しいのではないか。今の自分には理解困難なものとの出会いこそが視野をぐいと開く。だから、不可解なものを不安がるのではなく、ときめきを持って甘受すること。

 

わからないものを拒絶するのではなく、そのわからなさごと受け止め、対峙する。

切り捨てるのではなく、関わっていこうとする。

そこから派生する解釈に唯一の正解なんてないし、たぶんどれも正しい。


 

わかりやすいものばかりに飛びつくのではなく、

そんなわからなさを愛せるようになれれば、

人としての味が出てくるのではないかなと思っています。