井の中の蛙にならない

やわらかく、たくましく。

他人の視点で知る「わたし」

 

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最近人から言われることで気付かされることが多い。

 

もしかしたら、自分がいちばん自分のことを知らないのかもしれない、と思う。

 

ーーー

 

今日言われたことは

「なにを考えているか分からない」だ。

 

「もえりは人と上手く距離を取っている。

いろんなコミュニティに属しているけど、特定の誰かと特別仲良くしているイメージはなくて、でもみんなが話しかけづらいような人とも仲良く喋っていて、意識しているのか無意識なのか分からないけれど、いい距離感を保とうとしてる気がする。」

 

「それを見ていていくつかのことを並行して行う処理能力みたいなものがあるんだなって思ったし、就職する企業もひとつのことだけじゃなくていろんなことができるところを選んだんだなって思ってた。」

 

びっくりした。

自分でも薄々気付いてはいたんだろうけど、こんなにはっきり言語化してくれる人がいるなんて。

 

しかも、これを伝えてくれたのはゼミの同期なのだけれど、いつもふざけてばかりであまり深い話もした事がなかった人なのだ。

 

こんなにわたしのことを、わたし以上に分析してくれている人がいる事が嬉しかったし、ありがたいと思った。

 

 

大事な言葉をくれるのは、

いつも意外な人なのかもしれない。

 

 そんな人を大事にしていきたいし、

わたしもそんな誰かにとっての大事な言葉をあげられる意外な人になりたい。

 

もっともっと、

周りの人のことをよく見ていこう。

 

そして、その中でできる限りでいいから

少しずつ本当の意味での距離を縮めていこう。

夜更けに素敵な出会いはいかがですか

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ある夜の話。

 

友達と呑みに行った帰り、「ラーメンが食べたいね!」ということで

ふらりと立ち寄った小さなお店の中での出来事だ。

 

 

ラーメンを待っていると、隣の座敷にふたりのおじいさんがやってきて、

ひょんなところから会話が始まった。

 

二人は高校の同級生で、御年70歳。

同窓会の帰りだそうだ。

 

しかもなんという偶然だろうか、ふたりとも私と同じ福岡県の出身だった。

「博多の女は気が強いけん気をつけんとよ!」

なんて、おじいさんたちは友達にとても失礼なことを吹き込みつつ、

いろいろな話をしてくれた。

 

 

癌になったけれど、今は元気になったということ。

旅は、心の若いうちにしておくべきだということ。

秋田の女は純粋でおしとやかだということ。

前の奥さんの作ったカレーライスがすごく美味しくなかったということ。

渋谷より、銀座より、六本木の街が好きだということ。

少しの勉強でも、継続すれば、大きな差が生まれるということ。

一番の親孝行は、経済的な自立と精神的な自立だということ。

自分の幸せは、自分で決めるということ。

若い頃はたくさん遊べと言われたけど、たくさん遊んだらそれはそれで怒られたということ。

ふたりのプロポーズは、案外普通の場所でさらりと行われたということ。

プロポーズしたのに一週間返事を保留にされたこと。

人生は一度きりだから、後悔のないように生きるということ。

この出会いも、縁だということ。

 

 

たくさんたくさん話をして、たくさんたくさん笑った。

 

そんな愉快なおじいさんたちは、

もう少し若い人たちであったら交わされていたであろう

Facebook教えてもらってもいいですか?」

「LINE交換しませんか?」

という言葉を発することもなく、

 

「またご縁があれば、お会いしましょう」

 

という言葉を残して、颯爽と六本木の街へと消えていった。

 

 

12月初めの、素敵な出会いに乾杯。

 

 

 

 

こころに栄養を与える。

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朝食、昼食、夕食。極端な場合なら、朝食、昼食、夕食、お茶、夜食、そして寝る前には温かい飲み物を一杯。こんなに大切に養われているなんて、体は幸せです! 同じようなことを、誰が心のためにしているでしょうか。どうしてこんなに違うのでしょうか。心と体、そんなにも体のほうが大事なのでしょうか。

 

不思議の国のアリスの作者として有名なルイスキャロルが講演の原稿として書いた、

「心を養う」の序文。

 

本を「心の栄養」にたとえた読書論です。

 

生きるということは、体を養うことにかかっていて、

心が腹ぺこ状態で放置されていても、動物としては生きていける。

確かに心の状態は目には見えないけれど、

体と同じくらい大切な心をどうして放置しておけるのだろう。

心だって体と同じように適切に栄養を与えてあげなくちゃ。

 

という考えのもと、

心の暴飲暴食を避けて、適切な量を適切なタイミングで食べて、

しっかりと消化することの大切さが説かれていました。

 

 

短いのですらすら読めてしまうけど、面白くてためになる。

いい文章ってこういうことだなと思います。

 

 

この文章に書かれていたことを踏まえつつ、

心にも栄養をあげながら大事にしていこうと思いました。

 

 

短いけど、備忘録。

 

 

原文はこちら

ルイス・キャロル 石波杏訳 心を養う FEEDING THE MIND

 

 

 

 

 

さよならが苦手

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「さよなら」を言うのが苦手だ

 

そんなの誰だってそうだよ、と思われると思うけど、たぶんわたしの理由はちょっと違う

 

悲しさ を装わなきゃいけない気がして

少しだけ、本当に少しだけ息苦しいのだ

 

---

 

最近「さよなら」を言う機会があったときに

自分の感情のこの感情に気付いた

 

本当に心から悲しいな、寂しいなと思っているはずなのに

何故かそれは口に出してしまうと、

自分でも本当に思ってないような風に聞こえてしまうから

寂しい 悲しい という感情を意識的に大きくしてるような

一生懸命糸の端を手繰り寄せようとしているような

そんな感覚になる。

 

 

たぶん、「さよなら」の言葉に自分の感情を乗せるのが苦手なのだ

 

 

特に女の子は

「寂しい!」「悲しい!」

をとりわけ大きく出す生き物だから

余計に差を感じるのかな

 

 

 

そもそも、わたしは本当の意味での別れの痛みを経験したことがあるのだろうか

 

例えば卒業式なんかで周りの子が泣いてても

「でも一生の別れじゃないし、また会えるし」

なんて思いながら泣かなかったか、そんなことを思いながらも雰囲気に押されてちょっと涙が出たかのどちらかだったし

 

おばあちゃんが亡くなったときも、すごく悲しかったしたくさん泣いていたけれど、あまり実感が沸いてなかったのも事実だ。お葬式という、泣いて当たり前のイベントがあるから泣く、という側面ももしかしたら少しはあったのかもしれない。

 

 

 

 

本当の今で「別れ」を実感するのが、

わたしにとってはすごく難しい

 

たぶんそれは、

別れで本当の痛みを覚えた経験がないからだと思う

 

 

だから、悲しいけど、寂しいけど、

もう会えないなんてなかなか思えない、とか

生きてる人ならば、またどこかで会えるかな、とか

そんな甘えがあるから

上手に別れに対して悲しめないのかもしれない

 

 

寂しいね、悲しいね、

なんて

お互いに言い合ったってやめどきがないじゃない

とか身も蓋もないことを思ってしまうからかもしれない

 

 

 

 

 

 

そんなことを言ったって

本当に会えなくなってからの「悲しい」じゃ遅いのにね

 

 

 

 

 

 

こんなこと書くと読んだ人に

「じゃあこの子は今悲しんでるけど、これって無理してるのかな」って

思われそうだけど、

悲しい寂しいを上手く出すのが苦手なだけで、きっとその感情自体は嘘ではないので温かく見守ってください。

 

 

写真をもっと、好きになる。

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現実の世界を切り取って、自分の好きな世界を新しく作り上げていく。

そんな魔法が写真の中では可能になる。

 

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写真を撮るのが好きだ。

わたしは自分の記憶力に自信がないから、写真という記憶装置がわりと不可欠だったりする。

 

人も景色も全部全部残しておきたい。

 

 

加工カメラといわれるものが流行っているが、

個人的には写真の加工はアリだと思う。

顔の周りに耳とかリボンとかが出てくるものはあんまり使わないけれど。

 

加工カメラのフィルターに頼ってもいいし(好きだし)、

でもできたら自分の手で色味や明るさや濃淡を調節したい。

 

 

実際に見ている景色に感動してシャッターを切って、

わくわくしながら写真を見てみると

「うーん実物の方がきれいだなあ」

なんてがっかりした経験は、きっと誰にだってある。

 

写真の加工って、

写真の中の景色を自分が見て、感じた景色に寄せていく作業だと思うのだ。

同じものを見ていても、わたしとあなたの目にはたぶん違うように映っているから。

わたしにはこんな風に見えているんだよ、こんなふうに感じたよ

ということを一枚の写真を通して伝えられるのは、すごいことかなと思う。

 

そんな風に手を施した写真は、その人がつくる芸術に近いんだろうし、

写実的というよりも物語的で、それはそれで好き。

だから色んな意見があると思うけれど、わたしは加工肯定派。

加工してないそのままの写真も勿論好きだけど。

 

 

そう、同じものを撮っていても、

撮る人によって全く違う表情をみせるのが写真なのだ。

それは、加工をしてもしなくても。

「その人」が出てくると思う。

 

だからわたしは

「わたしは世界をこういう風に見ているよ」

っていうことを伝えるために写真を撮りたいし、他の人に見てもらえたら嬉しいなあと思う。

そして、人が撮った写真も見てみたい。

そうやって世界の交換をしてみたい。

 

 

つらつら書いていたら写真を撮りに行きたくなった。

そんなに撮るのが上手いわけではないけど、

写真って個人的にとても面白いものだと思うので

また別の記事でも書いてみたいな。

 

物語は人生を豊かにするというはなし

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わたしは本を読むのがすきだ。主に小説。

 

 けれどなかには、

「小説を読む時間があるのなら、ビジネス書を読んだほうが余程生産的だ」

という考え方の人もいる。

 

考え方は人それぞれだなあと興味深さを覚えつつ、

この意見に対してわたしなりの考えを述べさせてもらいたいなと思う。

 

 

まあぶっちゃけ小説を読むことが

ビジネスと直接的に結びつくかというと、そうでもない。

 

それならビジネスに役立つエッセンスが詰まっていて、

インプットしたものをすぐにアウトプットできるビジネス書を読んだほうが

有意義だ!という考え方は非常に筋が通っている。確かに。

 

しかし、小説を通して

何ものにも代えがたいとっておきの経験ができることをご存知だろうか。

 

それは

他者の経験を追体験できる点である。

 

え?なにそれ?

と思うかもしれないが、考えてみてほしい。

 

普通に生きていれば、自分の人生しか生きることができないし、

自分が経験したことしか経験できない。

 

しかし本を開き物語の世界に没入することで

会ったこともない人の人生を追体験できる。

 

年齢、性別、国籍、そして時代を問わず

誰の人生でも、である。

 

しかも小説ならば、日常生活では決して知ることのできない他人の考えが

文字として可視化されている。

これってよくよく考えてみると物凄いことだ。

 

ビジネスには必ず他者との関係が発生する。

 

その中で、自分の中の考え方のストックがあれば

どんな人と出会っても対応できるであろうし、

 

ついでに言うと

「この人って今こう考えているのかな」

という勘が確実に鋭くなる。

 

また、何十人 何百人もの人生を経験し、

その何十倍もの人に物語の中で出会っているので、

自分ひとりの考え方に固執せず物事を柔軟に考え、受け入れられるようになる

とわたしは思う。

 

 

上記は映画においてもいえるだろう。

 

小説然り、映画然り、

物語のような一見遠回りにも見えるものが

案外本質的だったりする。

 

ビジネス書にも面白いものはたくさんあるし、

知識としてのインプットも勿論大切だ。

 

 

だが、目先の単純さだけに飛びついて、

無駄だ無駄だと切り捨てていくのではなく

周りくどさを愛していけば、人生はどんどん豊かになる

とわたしは考えているし、そういう人生にしていきたい。

 

 

 

ほうれん草はなぜ 298円なのか

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東京の野菜は高い

これはただの愚痴である。

都会は野菜が高い。

あるときスーパーに入るとほうれん草が298円で売られていた。

いくらかだったは覚えていないけれど、地元のほうれん草はもう少し安かったように思う。

そんなことを考えつつ、ほうれん草を買って帰る。

キッチンに立ち、無心でほうれん草を切りながらふと思った、

 

「切ってしまえば大して見た目は変わらないのに、

   道ばたに生えている普通の草とほうれん草はなにが違うのだろう?」

 

ほうれん草は偉いのか

「ほうれん草 栄養」で検索するとこんな記事がヒットした。

 

rassic.jp

 

ほうれん草の栄養はやっぱりすごい!らしい。

鉄分やビタミンCを始め、たくさんの嬉しい栄養素が満点だそうだ。

すごい。むしろ298円では安いのかもしれない。恐るべしほうれん草。

 

ただ、考えてみると

ほうれん草だって昔はそこら辺に普通に生えていた、名無しの草だったのである。(たぶん)

それを誰かが見つけ、恐る恐る食べてみて、

なにかしらの研究をごちゃごちゃとしていき、

これは体に良いぞ!!と証明されたはず。(たぶん)

 

 

そこの違いってなんだろうなと思うのだ。

 

価値はどこで決まるのか

物の価値というものはたいてい金銭で決められる。

ほうれん草は298円を払う価値であるものだ、という認識があるから

298円で売られていても購入する人がいるのだろう。

 

だが、道ばたに生えている草を298円で買う人はいない。

それどころか踏みつけられたりもする。

 

でももしかしたら、今踏みつけられている草の中にも

もしかしたらほうれん草を凌ぐようなとんでもない力を秘めたスーパーマンが存在しているかもしれない。

 

そう考えると、物の価値って今現在の常識に依って決められるものではないし、

それは物でなくても人においても環境においても、

すべてにおいて言えることであると思う。

 

298円の価値が付いているから偉い、無名でなんの価値もないから劣等である

ではなく、

「もしかしたらとんでもないパワーを秘めているのかも」

という尊敬の念を持っていたいし、

できれば、ほうれん草をしがない一介の草から

「すごい!」と言わしめる存在にまで押し上げたほうれん草発掘者さんのように、

その価値を自ら発掘できる存在でいたいものである。